2009年06月30日

国防部部長の遅浩田は

国防部部長の遅浩田は1996年にアメリカを訪れた際に、「天安門広場では1人も殺されなかった」と発言[14]して世界各国から反発を受けたほか、日本を含む多くの国において、中国共産党の御用ジャーナリストを使って「虐殺は存在しない」、「天安門広場では死者は数人にすぎなかった」、「負傷者は1人もいなかった」などの、歪曲された内容のプロパガンダを行っている[15]。加えて、町山智浩など、日本を含む西側諸国においてもそのようなプロパガンダを信じ主張する「ジャーナリスト」が存在する[16](なお、「天安門広場内での死者はない」と主張している遅や町山などは、「天安門広場外」での「虐殺」の有無についても「そのような事実は存在しない」と主張したり、言及することそのものを避けている)。
スキューバダイビングに挑戦!
素肌のエクステ
ゴルフレッスンの日々
こだわりのレストランを探そう!
クラシックのグッドナイト
アロマタイムスイッチ
コスメ・メイク図鑑博士
ひまわりの天気予報
セレブな快適通販・取寄せライフ
キャンプねっと。ファミリー特集!
クリームソーダで保険比較
賢く検定・大好き
首都圏の素敵な部屋
車で行こう!道しるべ
WEBマーケティングノウハウ
フラワーパークで春夏秋冬体験講座
40歳の素敵な出会い
はじめての投資に挑戦
ウサギの人材派遣でお仕事
クロールアイドルNO1
こだわりキャンプ術
うらないカフェの秘密の部屋

また、中華人民共和国国内の一部のサイトの検索エンジンでは、「六四天安門事件」などの特定のキーワードで検索すると接続不可能になるといった規制や(Yahoo!やGoogle、MSNなど)、この事件についての記事が存在する「ウィキペディア」に対する接続規制が2004年の6月4日(天安門事件の記念日)前後に行われたりしたこともある[17]ことや、Twitterやhotmailなどのコミュニケーションツールを6月4日前後に遮断したり[18]、国内向けの衛星放送などで海外ニュースから天安門事件を報じると突如放送を停止させたり[19]、さらには海外メディア対策として外国人カメラマンが天安門を写そうとすると目の前で傘を開いて天安門を写させないようにする[20]など、事件から20年以上経過した現在でも中国当局ぐるみでの事件の隠匿が行われている。

そのため、本件以降に学校教育を受けた世代は事実をほとんど知らず(知っているとしても暴徒が軍を襲ったための自衛行為という程度であり、なかには海外メディアの街頭インタビューに対して『そんな事件はなかったんですよ』と答える者までいた)、海外に出て初めて真実を知るという傾向にある[要出典]。結果、中華人民共和国国内の民主化運動は一気に下火となるが、本件で中国共産党に失望して決別した活動家は多く、石平をはじめとした活動家が海外で活動を続けることになる。なお、その後石平は日本に帰化している。

2009年06月12日

物質の基本的性質である物性を研究する自然科学

物質の基本的性質である物性を研究する自然科学の分野が物理学と化学である。ドルトンの原子説およびアボガドロの分子説の提唱以来、物質は分子や原子が集まって構成されていることがわかってきた。さらに原子は電子、陽子、中性子という素粒子から構成されることがわかり、中間子やニュートリノなど日常手に触れられないような素粒子も物質とされるようになった。

物質は質量と体積により人に認識されて来たが、ラボアジェによる質量保存則の確立以来、質量が物質を特徴づける本質的な量と考えられるようになった。素粒子も質量をもつゆえに物質と考えられることになる。光や熱などのエネルギーは質量を持たず、物質とは別のものと考えられていたが、アインシュタインの相対性理論により質量とエネルギーは等価であることがわかり、光子も物質と考え得るようになった。現在では質量保存則は質量エネルギーも含めたエネルギー保存則に統一されている。

物質は置かれた条件により種々の相転移を起こす。特に分子や原子が集まって構成された通常の物質は物質の三態(固体・液体・気体)と呼ばれる3つの状態をとる。次にこれらの状態変化を挙げる。
物流
剣道
理学療法
建築学
救急医学
東海地方
結膜炎
有機化学
糖尿病
エックス線
湯・群馬
冠婚マナー集
玉露百科
楽しいアロマ
日本の音楽
皮膚と体毛
コーヒーで一息
循環器事典
さくら咲く
こどもの歌

固体から液体への変化 融解 - 物性値:融点、凝固点
固体から気体への変化 昇華・気化
液体から固体への変化 凝固・固化
液体から気体への変化 蒸発・気化 - 物性値:沸点
気体から固体への変化 凝固・昇華
気体から液体への変化 凝縮・液化・凝結・結露

2009年06月08日

懐古主義ともいうべき流れが素直に受け入れられ

このような「懐古主義」ともいうべき流れが素直に受け入れられたわけではなかった。 早くは、先に述べたように伊藤博文が『教育議』によって儒教主義的教育への回帰に反発し、 また、福沢諭吉も1882年(明治15年)に『教育如何』という論文を発表して、「道徳教育は国民の自主的な議論に基づいたものであるべきだ」と反論を加え[21]、 「儒教主義的教育の根源となっている信仰や服従の精神」を批判した[28]。 また、西村茂樹も『日本道徳論』(1887)で「儒教は『やってはいけないこと』ばかりを教えており、自主性が育たない」と指摘した[29]。 なお、先に述べたように彼は修身科教科書として『小学修身訓』を書いたが、 これはどちらかというと、西洋と東洋の哲学・倫理観をうまく組み合わせて折り合いをつけようとしたものであって、儒教主義一辺倒のものではなかった[21]。

初代文部大臣であった森有礼もまた、このような儒教主義に批判的立場にあった[21]。 彼は道徳教育に「自発性」を求め、忠孝道徳の暗記を強要する儒教主義には限界があると主張し[30]、 1887年(明治20年)に刊行した『倫理書』で「自分と他人は常に助け合って生きている」という自他併立の倫理観を発表した[31]。 また、道徳教育は修身科によって言葉で教え込むよりも、体育のような「体で覚えさせえる」教科によって行われるべきだとした[32]。
近畿東海 美容室 求人募集 警備 人探し レストラン 審美歯科 サプリ 老人 ショップ 教材 公園 資格 国内 ダイエット 増客対策 若返り 行政書士 離婚 老人 ブログ ぜん息 教材 学校 アウトドア 検定 旅行 矯正 特産物 美容 賃貸 探偵 養毛 介護サービス プレゼント 老人 乗り物 ぜん息 健康食品 スクール 海外留学 海外留学 スポット サプリ 就職 ダイエット 資産運用 占い ぜん息 興信所


また、別の立場・主張も存在した。 例えば、杉浦重剛は『日本教育言論』(1887)の中で、儒学と洋学を基礎として日本古来の倫理観に基づく道徳教育をすべきだと主張した[33]。 また、加藤弘之も1887年(明治20年)に『徳育方法案』を発表し、「道徳教育を宗教の中に求める」ことを主張した[33]。 彼によれば、道徳教育において一番大切なのは「愛国心」を育てることであり、そのためには儒教だけではなく、神道、仏教、キリスト教なども組み合わせて 教育をおこなうべきであるとした[21]。

このように1880年代に起こった道徳教育に関しての議論を「徳育論争」と呼ぶが、能勢栄はこの様子をみて、「どの論も甲乙付けがたく、限りがない」といったという[21]。 そして、彼はこの徳育論争のまとめとして1890年(明治23年)に『徳育鎮定論』を刊行した[34]。 その内容は、洋学主義や儒教主義といったような「ただ1つの主義を決めて道徳教育をおこなう必要はない」と主張し、 日本人が昔から持っている「コモンセンス」を大切にして道徳教育をおこなうべきだというものであった[34]。

このように、道徳教育に関する議論は収束することなく、混迷を極めた。 しかし、結局、『教育聖旨』という天皇の名によって発せられた方針にあらがうことはできず、その儒教主義的な教育内容を変えることはできなかった[26]。 さらに、1889年(明治22年)に森有礼が暗殺されると、政府内部からも森への批判が表面化することとなる[32]。 こうして、その翌年の1890年(明治23年)には『徳育涵養ノ義ニ付建議』が提出され、『教育勅語』の渙発がなされると事態は劇的な解決を迎え[35]、 おおむね儒教的思想にもとづいており[36]、その行動原理を「皇運扶翼のため」とする道徳教育へと向かうことになったのである

2009年04月24日

面積は約14,056,000 平方km

面積は約14,056,000 平方kmもしくは9.485×106平方km[1]、海岸線の長さは45,389 km。最大深度5440m、平均深度1330m[2]であり、太平洋・大西洋・インド洋と比べて平均深度は約1/3と浅い。北極海を横切るように、長さ1,800km、周囲の海底からの高さ3,300m-3,700mのロモノソフ海嶺が、ロシア領のノヴォシビルスク諸島からカナダのエルズミーア島にかけて伸びている。

探偵・求人募集関連経済検索エンジン
占い・離婚相談所関連ライフスタイルポータル情報
多汗症・健康関連医学プラザ検索エンジン
ファッション・自動車関連買い物生活ガイド
学校・予備校・塾関連まなび教育COM
交通・動物園関連旅行・地域情報紹介
エステ・しみ取り関連コスメチック倶楽部ネット
分譲・賃貸マンション関連マネービジネス検索エンジン
暮らし・キャッシング関連ライフスタイルストア-情報
育毛養毛・メンタルヘルス関連健康プラザサーチ

ユーラシア大陸、北アメリカ大陸、グリーンランドに囲まれている。バフィン湾、バレンツ海、ボーフォート海、チュクチ海、東シベリア海、グリーンランド海、ハドソン湾、ハドソン海峡、カラ海、ラプテフ海、白海を含む。ベーリング海峡で太平洋の付属海であるベーリング海と、グリーンランド海で大西洋の付属海であるノルウェー海と繋がっている。

資源
北極海の鉱物資源・動物資源はその豊富さが注目されている。石油、天然ガス、漂砂鉱床、マンガン団塊などのほか骨材となる砂利が海底に眠っている。また魚、アザラシ、クジラも多く生息する。

北極海の中央部は、アメリカ合衆国、ロシア、カナダ、デンマーク、ノルウェーといった国々が、これらの資源や北西航路・北極海航路(北東航路)を狙って権利を主張している。特に世界の未発見の石油・天然ガスのうち4分の1以上が海底に埋蔵されているとみられており、ロモノソフ海嶺による経済水域の定義をめぐりロシアとカナダなどの論争も起こっている。

2009年04月07日

現在のカントリー・ミュージック

ロックなどの影響を強く受け、今や若者を含めた幅広い世代の絶大な支持を得て、アメリカでは最も人気のある音楽ジャンルの一つとなっている。 例としては、花火やワイヤーアクションを使い、まるでハードロックのような派手なコンサート演出を取り入れたガース・ブルックスが、既に全アルバム売上総数1億2千8百万枚に達している。(ちなみにアメリカ音楽史上、ガース以外で米国内売り上げ1億枚以上を達成しているのは、エルビス・プレスリー、ビートルズ、レッド・ツェッペリンのみである。) また、カナダ出身の女性シンガーで、ポップスタイルを定着させたシャナイア・トゥエインも、アメリカ世帯の3軒に1軒が彼女のアルバムを所有しているというほどの売り上げを誇っており、彼らはもはや世界的ポップスターのマイケル・ジャクソンやマドンナなどの歴代総売り上げを超えている。 グループでは、女性トリオのディクシー・チックスが既に3000万枚以上のCDを売り上げ、女性グループとしては史上最多セールスとなっている。

音楽スタイル [編集]
最近のカントリーは、いわゆるロックやポップスの影響を大きく強く受けているが、中にはヒップホップ調、ユーロビートやクラブ・ダンス調などの奇抜なスタイルの曲があったり、NASCARレースのファンやハーレーダビッドソンにまたがるバイカーたちに人気の ブルース・ロックやサザン・ロック風の曲も多い。 また、多くの他ジャンルのミュージシャン(例:ボン・ジョヴィ、キッド・ロック、ネリー、ジェシカ・シンプソンなど)とのジャンルの垣根を越えたフィーチャリングも盛んに行われており、曲中にラップを多用するカントリー・ラップ(Country-rap)に、ヒップホップとロックとテハーノ音楽の要素を融合させ、Hick-Hop(hickとは「田舎」を意味する。)と称する 独自のジャンルを確立したテキサス出身の黒人ラッパーであるカウボーイ・トロイ(Cowboy Troy)も、れっきとしたカントリー・アーティストに位置づけられているなど、もはや何をもってしてカントリーとするかという分類は非常に難しい。

現在は、この様なカントリーのポップ化が進んでおり、「カントリーの産業化」と揶揄されることもあるが、“正統派”と言われるものや、昔から安酒場で歌われ続けている様な泥臭い往年のホンキートンクスタイル、テキサス州などを中心とした地域色の強いスタイル、ブルーグラスやフォークソングなどもいまだ健在で、また十分な人気を保っており、そちらの方向へ回帰する者もいれば、その中間をうまく渡り歩くミュージシャンも多い。

日本の現状 [編集]
日本国内ではカントリーという音楽ジャンルとしての規模が非常に小さいが、カントリーに影響を受けた他ジャンルのミュージシャンは多く、またプロのカントリーミュージシャンも少なからず存在する。 毎年 秋に熊本県阿蘇の巨大野外ステージで開かれる『カントリーゴールド(COUNTRY GOLD)』というイベントをプロデュースし、自身も出演する チャーリー永谷はその草分け的な存在。 しかしながら、そんな日本人カントリーミュージシャンたちの多くは、戦後間もない時期に進駐軍やFEN(米軍極東放送)などを通してカントリーに触れ、ロカビリーブーム到来とともにバンドを組み、朝鮮戦争やベトナム戦争当時、アジア各地の米軍キャンプやその周辺のクラブで演奏していた世代、もしくは多少若くても40代から団塊の世代にかけてがほとんどのため、アメリカの最新流行とは多少のズレが生じている。(カントリーへの造詣が深いことで有名なフォークシンガー なぎら健壱はその普及にも熱心だが、彼にも同様のことが言える。)

ただ、カントリー自体の認知度が低かったり、一、二世代前のイメージが残る日本でも、映画「パール・ハーバー」や フジテレビ系列で放送されたテレビドラマ「薔薇の十字架」の主題歌を歌ったフェイス・ヒル、映画「コヨーテ・アグリー」の挿入歌やアテレコを担当し、自身も本人役でカメオ出演したリアン・ライムス、ポップ・カントリーで旋風を巻き起こしたシャナイア・トゥエインなどのアルバムはそれぞれヒットとなった。最近も、ディズニーのアニメーション映画「カーズ」にサントラに参加したラスカル フラッツ(Rascal Flatts)や、FOXテレビの人気アイドルオーディション 番組『アメリカン・アイドル』で優勝し デビューを果たした キャリー・アンダーウッドや、ケリー・ピックラー(Kellie Pickler)、10代を中心に若者からの人気が高く、立て続けにヒット曲を生み出しているテイラー・スウィフトなどもかなりの人気を得ている。 しかしこれらは日本ではマーケティング戦略上、ポップ音楽や映画のサントラに位置付けらている場合が多く、決してカントリー自体の知名度やジャンルの規模が拡大しているとは言えない。

メディア [編集]

テレビ [編集]
現在、アメリカにおいてカントリーミュージックの最もメジャーな情報発信源となっているのは、巨大メディア複合企業、バイアコム(Viacom)傘下のカントリー・ミュージック・テレビジョン(CMT)というケーブルTVチャンネル。まさに“カントリー版MTV”といった感じの構成で人気を博している。 CMTのウェブサイトでは、各ミュージシャンのミュージック・ビデオ等、ストリーミング配信を無料で視聴することも可能。
また、このCMT以外にもGACやVH1 Countryなど、カントリー専門のケーブルテレビ局は複数ある。

ラジオ [編集]
自動車社会、アメリカではカーラジオの聴取率が高く、カントリー専門のラジオ局も各地に多数(地上波だけで2000局以上)あり、オンラインでも聴取可能な局や、オンライン専門局も多数存在する。

KKGO 105 : GO COUNTRY 105(公式ホームページ(英語)- ロサンゼルス地域で全米一位の聴取率を誇っていたローカル局の93.9 KZLAがアダルト・コンテンポラリーへフォーマットを変更したことによって生じたこのエリアにおける半年間の“カントリーの空白”を埋める形で2007年2月26日からカントリー・フォーマットをスタートさせたロサンゼルスのFM局。
KPLX 99.5 :99.5 the Wolf(公式ホームページ(英語)) - テキサス州ダラス/フォートワース都市圏を聴取エリアとするカントリー専門FM局の中で最も人気のある局。地元密着型。 現在、カントリーフォーマットの局としては、この局が全米聴取率一位の座にある。
WSM 650 :650 WSM(公式ホームページ(英語)) - カントリーの聖地、テネシー州ナッシュビルにあるローカルAM局。1925年からグランド・オール・オープリーを放送している。 (テレビ配信はGAC)

雑誌 [編集]
COUNTRY WEEKLY(英語): 多数ある専門誌の中でも、書店以外に、スーパー、コンビニ、売店などで、普通のゴシップ週刊誌と一緒に売られているほどの人気を誇る週刊誌。
MOON SHINER(日本語):1983年以来発行されている月刊ブルーグラス音楽専門誌。カントリーやフォークを含め、アメリカン・ルーツ音楽に関する日本唯一の専門月刊雑誌。

王様 ケルピ つまごい まさめ ドンタ ラドン スラグ リリース れんがいろ イグアナ ジーユー プロデュポ 寛仁 日野菜 かやべ 睡蓮 リサーチ 鳥のくちばし ながぬま ロット シンビ ロゼ オフデイ トラン ナノチュ シエスタ サンリ ハイル ドルメン シンデレラ せーじ フットギア アムス チャル 雪うさぎ ファム あんず ディレッ ランプ マチュピ とうゆう 竜馬の如く イカオ 春夏秋冬 モンスーン ムイズ しゅくや ユニテリ リードオ パーセク

2009年03月23日

製造年による相違点

年ごとの製造状況は次のとおりである。

混雑緩和や旧形車両の取り替え用に10年間にわたって新造されたため、名鉄における最大勢力である。そのため、同じ系列内でも製造年によって外観や仕様に変化がある。

1976年 1次車 6001F-6006F 24両(4両編成6本)
1977年 2次車 6007F・6008F 8両(4両編成2本)
1978年 3次車 6009F-6014F 12両(2両編成6本)
1979年 4次車 6015F-6017F 12両(4両編成3本)
1980年 5次車 6018F-6027F 30両(4両編成、2両編成各5本)
1981年 6次車 6028F-6032F 16両(4両編成3本、2両編成2本)
1982年 7次車 6033F-6037F 16両(4両編成3本、2両編成2本)
1983年 8次車 6038F-6044F 22両(4両編成4本、2両編成3本)
1984年 9次車 6045F-6048F 8両(2両編成4本)
1985年 10次車 6049F-6052F 8両(2両編成4本) 
クシェット ショベル フットプ スターリン ツリー 一期 ワッフル シリコー フォル ミッド オパール パスカル ニシダ バシネット ネトル いなば ハント トルネード ローダー スパラキ おどろき プログム リベット グアヤ ケープ うわばみ 水鏡 いろは坂 ストア サイヒト マチア トレッカー タマシダ ぼちゃ 温順山椒 グロナス レディ オーバート SEOタイ ビュー ディス オフセン かゆばら ダビンチ ディマー カイアポ かもい ギタリ るすつ トケドー

1 - 4次車(初期車)
1976年から1979年にかけて製造された1 - 4次車と、翌1980年から1983年にかけて製造された5 - 8次車は、正面スタイルが7700系と似たものであるが、正面中央上部が前照灯から種別・行先表示幕となった。3次車まで表示幕窓の縦横寸法が小さく、また、1次車のみ表示器上縁の幅が広い。更に、2次車から前面貫通扉が車体幌枠座と面一になり、前面窓がパテ支持からHゴム支持に変わっている。なお、1次車の中でも、第2陣である6004編成以降は、座席下の蹴込板が無塗装になるなどの変化が見られる。1次車の第1陣のみ吊り革の取り付け方が異なり、パイプを通して吊り下げている(他の6000系で吊り革はは全て冷房ダクトから吊り下がっている)。

3次車までは、満員時のガラス破損や戸袋吸い込み事故を防止するため、客扉の窓が小さいタイプである(6600系も同様)。客扉の内側は1次車のみ従来と同様の塗装処理、2次車以降が化粧板仕上げとなったが、これも特別整備の際に化粧板の上から塗装処理されている。1979年製造分の4次車までは側窓も7000系・7500系パノラマカーのような固定式連続窓であり、日除け用として横引きのカーテンが装備されている。

4次車以降は、客扉窓と前面種別・行先表示幕寸法を拡大したほか、床面高さを40mm下げ、1110mmとした。また、永久連結側は片開き扉の狭幅貫通路に変更された。4次車は三河線海線区間のワンマン運転開始とともにワンマン対応となり、1次車の第1陣(6003編成以前)とともに三河線を中心に運用されている。3次車は6014編成を除いてワンマン対応改造が行われており、広見線と蒲郡線で運用されている。

冷房装置は、これ以降3500系まで継続採用となる1基当たり10500kcal/hの集約分散式で、4次車までは、各車に3基搭載し、名鉄初の補助送風装置(ラインデリア)を併用する。

2009年03月07日

ウォーデン (ミサイル巡洋艦)

ウォーデン (USS Worden, DLG/CG-18) は、アメリカ海軍のミサイル巡洋艦。リーヒ級ミサイル巡洋艦の3番艦。艦名はジョン・L・ウォーデン海軍大将に因んで命名された。その名を持つ艦としては4隻目。

ウォーデンは1961年9月19日にメイン州バスのバス鉄工所で起工する。1962年6月2日にウィリアム・R・スメドバーグ3世夫人によって進水し、1963年8月3日にマサチューセッツ州ボストンでスコット・ロスロップ艦長の指揮下就役した。

1960年代
ウォーデンは就役後、ボストン海軍造船所で2ヶ月間の調整を受ける。10月12日にボストンを出港し、整調訓練のためバーミューダに向かう。訓練を終了するとウォーデンは10月28日にハンプトン・ローズ、バージニア州ノーフォークに向かい、11月13日に母港のカリフォルニア州サンディエゴに到着する。ディボブ湾、ワシントン州シアトルでソナー測定を行った後、ウォーデンは艦隊旗艦となる。

1964年1月にウォーデンは太平洋ミサイル試験海域でシステム承認試験の一環としてミサイルを発射した。その後もサンディエゴ海域で作戦活動を続け、3月に整調後信頼試験のためロングビーチ海軍造船所入りする。作業は5月前半に完了した。

5月18日から6月26日までウォーデンはサンディエゴでの訓練に参加する。最初の艦隊訓練は7月10日から17日まで行われ、対空戦闘が主であった。1964年8月11日にウォーデンは極東展開のため西太平洋に向かう。ミッドウェー島およびグアムで燃料を補給した後、8月30日にフィリピンのスービック海軍基地に到着し第7艦隊での活動を開始する。10月後半から11月前半には横須賀を訪れ、その後も1964年末まで東南アジアでの作戦活動に従事した。
レザー ホオズキ テレサイ スアレ 元亀 スリーブ アンス ファイフ テストパ 宇宙戦艦 ダーク アレン インロ デグー 赤いランプ 索ゴブレット トフル 男泣き ブロー キウイ ナーヤ ヒオウギ りょう カーブ ラワン ステッチ クイン きょっこう ブラッ きくもん まきえ 影の館 シリマリ クアッド 戦国合戦 ジャン サムネ ワーク シャイツ サイバ セルドレ ビュッフ 木漏れ日 シアター タムウ アココ オーニ ケンブ トークシ アネク

1965年の元日にウォーデンは休養のため香港に入港する。その後横須賀に短期間停泊し、1月24日に本国へ帰国の途に就く。2月17日に母港に到着、3月5日まで停泊した後ロングビーチ海軍造船所で3か月の信頼性検査が行われる。

1965年6月2日にウォーデンは新たに装着されたレーダー評価のためサンディエゴへ向かう。ウォーデンは母港の海域で活動を続け、1965年11月18日から24日までカリフォルニア沖での艦隊演習「レンジ・ブッシュ」に参加した。その後は同年末まで太平洋西部へ展開するための準備を行う。

1970年代
1980年代
ウォーデンは1993年10月1日に真珠湾で退役し、除籍された。当初はスクラップとして売却される予定であったが、その契約は無効となった。船体は2000年6月17日に標的艦として破壊、海没処分となった。

ウォーデンはベトナム戦争の戦功で9個の従軍星章を受章した。

2009年02月19日

第一次世界大戦 (1914-1918)

1914年、セルビアの凶変によって第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパの各国に武器、車両を輸出して外貨を獲得することができ、経済が非常に潤った。すぐに終わるといわれた戦争は長期化し、ヨーロッパはドイツ・オーストリアを挟んで東と西の戦線で非常に荒廃した。イギリスはアメリカの参戦を要望したが、孤立主義の看板を掲げたアメリカは応じることはできなかった。1917年、自国商船ルシタニア号がUボートに撃沈される事件が発生、さらにツィンメルマン電報も要因となり、国民世論は派兵賛成へ展開し、ようやく出兵した。こうしたドイツへの軍事的圧力は、1918年のドイツ革命やドイツ敗戦を導いた一要因であると考えられる。これによって、アメリカは国際的な威信を高めることになった(一方で、ヘミングウェイらに代表される失われた世代も登場した)。また、ロシアで革命が起こり、ソビエト連邦が発足すると、チェコ軍団の救出のため、日本と共にシベリア出兵を行った。米国は終戦とともに撤兵したが、日本が侵攻を継続した為、日本に対する疑念が深まった。
チング ハムナ タッセル オセア おおやまと クーポ シカゴ バリケード フィロ スプリン スモーカー プロバ サーチドア シュメール スティバル あっぱれ シャコ マリッジ 回転計 モノレール トップア ラテン ブレキ ティブ ピナフ システ そうよう モビール ラテアー チャレン センター フライド ビアフラ フットウ ガニメデ ブルー 大根ダイ トフロント びえい ネック ひみつの扉 ジーパン ジェリ ゼソウ コスモス しだれ梅 ひのみ レッジ スリラ トラウ

史上最高の繁栄と没落 (1918-1939)
大戦後はウッドロウ・ウィルソン大統領の主導によって国際連盟を設立、国家間の争いを防ごうと積極的に整備を進めたが、孤立主義を守ろうとする保守的な議会の決議によってアメリカは不参加と言ういびつな機構となってしまった。ウィルソンによって掲げられた高い理想の達成が失敗すると、アメリカは再び孤立主義を選択することとなる。

経済は、消耗したヨーロッパに変わって世界の工場として輸出を拡大、国際的にも大戦に消極参加だったアメリカと日本が大国として存在感を増し、両国は史上初めての繁栄を謳歌した。米国内では、戦争から帰還した若者を中心に刹那的な文化が台頭し、急速に消費社会に移行した。大都市では高層ビルが建設され、ニューヨークなどは摩天楼と呼ばれる高層都市となった。トーマス・エジソンによって早期に電気が普及したことから、夜間でも明るい街は人間の活動時間を飛躍的に拡大した。グラハム・ベルによって普及した電話は遠く離れた人と直接交流できる手段となり、ビジネスをより効率的に、効果的に発展させることに寄与した。さらに、ラジオ・新聞の発達によるマスメディアの成長によって、市民はリアルタイムで新しい情報を仕入れることが可能となり、成長を常に新しい情報に頼る社会(情報化社会)のさきがけとなった。

1920年代前半は大規模なストライキなどが頻発し、アメリカで最も労働運動が盛んに行われた時代でもある。しかし、賃上げなどを要求することよりも、企業の国有化を求めるものが大半であった。これは共産主義革命に成功したソビエト連邦に影響を受けたものとも取られて、企業活動に影響を与える労働運動を弾圧する動きが司法庁を中心に盛んに行われ、マルキストや共産主義者とされた人々のソ連への追放が行われた。この活動には捜査局BOI(現FBI)長官フーヴァーによる司法支配が背景にある。彼は1924年の就任以降、死までの約50年にわたり長官の座に就き、FBIの権限・能力強化に尽力した反面、自らは冷戦前半にかけて「影の大統領」と呼ばれるほどの強大な権限を手にして、アメリカの数々の内外政策に関与した。

またこのころ、リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行に成功したり、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックなどの野球スターが登場、市民を熱狂させ、大資本によるハリウッド映画が製作された。また大衆市民が手軽に株や土地を売買し、情報網の発達に伴って大都市を中心に流行したが、これは株価や地価を異常に高騰させる理由となった(バブル景気)。しかし、アメリカが人類史上最高の「富」を手にしていることは、世界の誰が見ても真実のようであった。

一方、農村部では大戦中の食物増産によって土地が疲弊し、その後の農業政策に失敗したことから、南部の小農家がさらに没落し、離農して西部を目指すものが多く現れた。大都市が繁栄を謳歌する傍らで、農家は貧しさを味わうと言う、非常に偏った「富」であったことも事実である。

豊かになった大都市では、富を目当てに群がるユダヤ人やカトリックなどの新移民に対して差別感情が蔓延した。アルコール依存症患者が増加したためとの名目で禁酒法が制定されたが、実際は新移民に酒造業を営むものが多かったことへの排斥感情に基づいているとも言える。他にも黒人の反乱が地方都市で頻発したこともあり、クー・クラックス・クラン(KKK)などの人種差別団体が公然と組織され、黒人や新移民を弾圧した。また20年代には日本人による移民が急増したが、これら日系アメリカ人が社会的に成功する様に危機感を抱いた勢力によって、日本人の脅威を煽る積極的な反日キャンペーンが繰り広げられ、日本製品のボイコットなどが行われた。日系移民の多いカリフォルニア州を中心に排斥運動は高まり、移民禁止法が制定されるなど、人種差別が公然と行われる時代であった。日系人排斥運動は隣国カナダへも飛び火した。

やがてヨーロッパの自力復興によって、アメリカの輸出経済に陰りが生じ、1929年9月の最高値を境に、株価はじわじわと値を下げ始めていた。しかし熱狂した市民はそれに注意することも無く、株や土地の売買を続けた。1929年10月、遂に株価が一斉に大暴落し、史上最高の繁栄を誇ったアメリカはここに破綻した。アメリカの破綻は「世界の工場アメリカ」に経済依存していたヨーロッパ諸国や日本に波及し、1930年代を取り巻く世界恐慌となった。

資本家は一斉に労働者の首切りをはじめ、大都市は失業者で溢れた。配給には長蛇の列ができ、浮浪者や犯罪者が増加して社会不安が蔓延した。農家の没落はもはやとどまるところを知らず、彼らが逃れた西部にも、彼らを受け入れる余地はどこにも無かった。そこにかつての繁栄を誇ったアメリカはどこにも存在しなかった。

この社会不安の中、大戦恩給の前払いを求めて退役軍人が首都ワシントンで大規模なデモを起こした。陸軍士官ダグラス・マッカーサーはこれを共産主義者に煽動された暴挙とし、彼らを戦車を主体とする軍事力で弾圧、流血の事態となった。このころ失業者のデモや闘争が相次いでおり、革命が公然と叫ばれるようになっていたが、これらを共産主義者が煽動していることは十分に考えられることであった。どちらにしろ、この後に共産主義者を大量に検挙することに成功し、アメリカでの共産主義運動は沈静化した。

この不景気によって自国経済から外国を締め出そうと、欧州の多くの国で民族主義や帝国主義を色濃く含んだ国家主義、いわゆるファシズムが台頭、すでに植民地を持つ国では、宗主国と植民地の間での地域内経済(ブロック経済)によってある程度復興したが、持たざる国ではそうもいかなかった。そして植民地を持たない国は、領土拡大・植民地獲得のための侵略でしか国家生存の道は残されていなかった。

一方、フランクリン・ルーズベルト大統領は、国が率先して主導する大規模公共事業を中心としたニューディール政策によってこの難局を乗り切ろうとするが、経済は一時的に回復したのみで、1930年代後半には再び危機的状況に陥った。

第二次世界大戦 (1939-1945)
1939年9月、アドルフ・ヒトラー率いるドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発、短期間で西ヨーロッパの大部分はドイツに占領され、イギリスも執拗な攻撃によって疲弊した。イギリスのウィンストン・チャーチルは再三にわたってアメリカに参戦を求めたが、世論の支持を得られないと考えた大統領ルーズベルトは難色を示し、中立法を遵守するとした。ドイツは頑強に抵抗するイギリスの攻略を諦め、1941年にはソビエト侵攻に移った。三国同盟によってドイツと同盟関係にある日本は、中国大陸への軍事侵攻を行っており、アメリカは西欧と共に経済制裁を行っていたが、効果は大きく、1941年7月の南部仏印進駐は、東南アジアの油田に対する侵攻準備と受け取られた。アメリカはこれに対して「ハル・ノート」として知られる強硬な要求を突き付け、12月に日本がハワイ真珠湾を攻撃した。ルーズベルトは即座に参戦を表明、枢軸国に対して宣戦布告した。

この頃、欧州戦線はドイツがスターリングラードでの戦いに敗れ、形勢が逆転した。ドイツが防戦となる中で、米英両軍はフランスのノルマンディーへ上陸した。また、ドイツ軍が発展させた都市無差別爆撃の戦法を英米軍も採用し、ドイツの主要都市をことごとく破壊して国家機能を奪った。同盟国イタリアは政権転覆によって降伏、ドイツは東西両軍から挟み込まれる形となり、ついに自国領内への侵攻を許し、連合国の勝利は決定的となった。

日本は開戦と同時に東南アジア植民地を次々に占領、欧米の統治体制を一時的に崩壊させた。アメリカもフィリピンとグアム、アリューシャン列島の数島を奪われたが、ミッドウェー諸島の占領を阻止(ミッドウェー海戦)し、ガダルカナル島上陸によって戦況は逆転、太平洋の島々で両軍は世界戦史に残る壮絶な死闘を繰り広げた。マキン・タラワ両島や硫黄島では最大の戦死者を出し、サイパンやフィリピン、沖縄では住民を巻き込んだ悲惨な戦争となった。北マリアナ諸島を占領した米軍は、無差別爆撃を日本でも行ったが、木や紙を多用する日本家屋の構造を考慮した焼夷弾を使用して、主要都市を人口の多い順に焼き払い、日本の国家機能は破壊された(太平洋戦争)。

また、米国内の日系アメリカ人を敵性国民として、残らず砂漠地帯に建設した強制収容所に送った。このため、日系人の若者は信頼を回復する為に軍へ志願入隊し、欧州戦線の激戦区に送られた。日系人部隊の戦いぶりは他の部隊を凌駕し、大戦で最多の勲章を受章した。この活躍により、米国での日系人の信用は徐々に回復して行った。日系人や在住日本人はカナダや南米の多くの国でも同様に収容所へ送られ、終戦まで過ごした。このような措置は、イタリア系やドイツ系の国民に対しては行われず、あからさまな人種差別感情が背景にあった。

ルーズベルトは戦争中にもチャーチル、ソ連のヨシフ・スターリン、中国の蒋介石と密接に会談(テヘラン会談、カイロ会談、ヤルタ会談)、ルーズベルトは戦後の処理についてこの頃から路線を決定していたが、1945年5月のドイツ降伏後に急死する。跡を継いだハリー・トルーマンはポツダム会談によって戦後の路線を明確にし、日本に対して世界初の原子爆弾を使用した。原爆はマンハッタン計画と称した極秘計画によって、巨額の費用と最高の能力を投じて開発した最終兵器であり、後には「核」と呼ばれ、終戦後の世界を支配する力を持つものであった。アメリカは日本に2発の原爆攻撃を与え、ソ連もヤルタ会談の約束どおり参戦して、日本を降伏に追いやった。

戦後世界の復興は、まずアメリカ・イギリス・ソ連の3カ国によって主導権が握られた。欧州では、枢軸中心国ドイツとオーストリアは英米仏ソ4国によって分割統治、イタリアは領土割譲と高額の賠償金を承諾して講和し、植民地も保障された。枢軸国となった東欧諸国はソ連の影響圏に置かれ、南欧は英ソ両国が影響力を持った。日本は本土をGHQ SCAPが統治、沖縄・奄美・小笠原・南洋諸島をアメリカが信託統治、朝鮮半島は米ソで分割、南樺太・千島はソ連が領有、台湾は中国が領有した。しかし、日本が占領していた東南アジアは宗主国が復帰したものの、ベトナムやインドネシアでは独立戦争が勃発し、インドでも反英暴動が起こるなど、戦前の帝国主義が崩壊した新たな時代の幕開けとなった。

冷戦前期 (1945-1969)
世界の盟主を自負していたイギリスは、戦争の痛手と植民地の相次ぐ反乱によって急速に衰退し、代わってアメリカとソ連が世界の覇者となった。かねての構想であった国際連合を設立、戦後世界の構築を進めた。しかし、思想が異なるソ連との連合は不可能なことであり、戦後すぐに双方は離反した。アメリカはマーシャル・プランによって西ヨーロッパを経済援助することを基本路線に掲げ、対するソ連は東ヨーロッパの周辺弱小国を共産化したことから、欧州大陸は東西に分裂した。いわゆる冷戦である。双方はベルリン問題で対立を深めたが、朝鮮戦争(1950年-1953年)によって遂に熱い戦争となった。アメリカは欧州を防衛する為、集団防衛組織として北大西洋条約機構 (NATO) を設立し、ソ連と東欧を封じ込める戦略を採った。また中東条約機構 (METO) の成立に寄与し、東洋では東南アジア条約機構(SEATO)・ANZAS条約・日米条約・米韓条約・米華条約・米比条約をそれぞれ締結して、ソ連と中国を包囲した。さらに、対外情報機関を統合したCIAが設置され、東側との情報戦や諜報戦など工作活動が盛んに行われ、また西側諸国も影響下に置くべく監視した。CIA長官は強大な権限を与えられ、これ以降、数々の国外活動にCIAは関与するようになる。

国内では戦争が終わった安堵感と、若い兵士が帰国したことから結婚と出産が急増し、1945年から数年間で幼児人口が増加した(ベビーブーム)。いわゆる「ベビーブーマー」(日本では団塊の世代)と呼ばれる世代の登場である。戦争を潜り抜けた若い家族は、戦前の家族制度に縛られず、両親とは離れた郊外に一戸建てを購入して生活することが多くなり、核家族化が急速に進んだ。この背景には、安くて高性能・しかも若者受けするスタイルの自動車が多数販売されたこと、高速自動車道路網の整備が急速に行われたことが大きく影響している。さらに、家庭用電化製品(家電)の発明と普及が、核家族化の進んだ家庭を助けた。郊外の宅地整備ラッシュ、自動車と家電製品の製造、さらには戦争で再び荒廃した西欧へ製品を輸出したことにより、米国経済は非常に活性化し、1950年代には大好況となった。テレビ、レコードなどの新たな娯楽が普及し、エルビス・プレスリーなどのミュージシャンが登場した。また、ハリウッド映画の黄金期と呼ばれるのもこの時代で、長編の大作映画が次々に製作された。

一方、冷戦の急速な緊張の高まりにより、1940年代末期にジョセフ・マッカーシー上院議員が中心となった反共運動が国民の支持を拡大、FBIも共産主義者の取締りを強化し、公民問わず様々な場所で、共産主義者と見られた人々の排斥が行われた。それは民間企業から官公庁、果ては軍隊へ至り、労組の力が強かったハリウッドでは、数々の作家や俳優が共産主義者として排斥された。この中でチャップリンなどは国外亡命に追いやられて、国内外に衝撃を与えた。これらはマッカーシズムや、魔女狩りに例えて赤狩りと呼ばれ、マッカーシーが失脚する1950年代前半まで大きな動きとなった。この運動によって公職を追放された者は数知れないが、一方で米国内の共産主義運動の芽を摘んだと評価する者もいる。なお、連合国の占領下にあった日本においても、レッドパージとして同様の排斥運動が盛んに行われたが、これは反共のマッカーサー司令官の意思が大きい。

世界では1960年代までに植民地からの独立が相次ぎ、西欧の帝国主義的な覇権は終焉を迎え、独立国が資本主義的国家ならばアメリカが、共産主義国家ならばソ連が支援するという二極世界が誕生した。そしてお互いは核兵器、大陸間弾道ミサイル、原子力潜水艦という具合に、この間に相手を何万回も殺せる兵器を持つに至った。大気圏内での核実験を相次いで実施し、核戦争に備える対策が全国で取られた。また両国は軍事的優位に立つために宇宙開発競争に乗り出した。航空宇宙局(NASA)が設立され、人工衛星、有人宇宙船を次々に宇宙空間に送り出したが、ソ連が常に先を行っていた。ジョン・F・ケネディ大統領(民主党)はソ連より先に人類を月へ送り込む計画を打ち出し、NASAの事業はこの目的の為にほぼ一本化されていった。

そんな時、アメリカの庭であるキューバで革命が起こり、これを阻止すべく、亡命キューバ人を中心とした侵攻軍を組織したが、この計画は失敗した。共産化したキューバはソ連と親交を深め、アメリカを狙う弾道ミサイルを配備しようとしたため、ジョン・F・ケネディはソ連と核戦争瀬戸際の外交戦を展開した。これがキューバ危機(1962年)である。この危機的状況を打破した米ソ首脳は、緊張の緩和を目指すことで一致し、この後は米ソの直接的な激突は避けられた。

国内では、社会的に保障されず、差別に悩む黒人が公民権を獲得する為の運動(公民権運動)を行い、急速に盛り上がっていた。特に、1963年は南北戦争の奴隷解放宣言から100周年であり、黒人のデモが相次いで白人と衝突し、銃撃戦に発展する地域もあったが、指導者的存在であるキング牧師はインドに学んだ非暴力闘争を主張し、支持を拡大した。この公民権運動に加え、フランスを中心に拡大した大学生による大学自治運動(学生運動)が飛び火し、学生によるストライキやデモによって、ほとんどの都市が騒然とした状態となった。ケネディは黒人への公民権付与や大学自治の拡大を認め、解決への道筋をつけた。しかし、以前からアメリカ政府が取り組んでいたベトナム政策を転換しようとした矢先に暗殺された。

ケネディの後を継いだリンドン・B・ジョンソン(民主党)は、拡大しつつあった「貧困との戦い」と、公民権運動の最終的な解決を目指した「偉大な社会」計画を実行し、一方ではベトナムへ積極的な介入を行い、トンキン湾事件を引き金としてベトナム戦争(1965年-1975年)へ発展した。北ベトナムへ地上軍を進めることの出来ない米軍は、北から次々に侵入する共産軍に苦しめられ、戦闘は泥沼化した。死傷者が続々と増える中で、欧米や日本では大学生を中心に共産主義運動が流行しており、これは公民権運動と結びついた反戦運動となった。これらの運動は「ベビーブーマー」が主体となっており、既存の文化・社会体制に反感を持ったヒッピーなどに代表される、反社会的な若者文化によっていっそう盛り上がった。長引く戦争に対して国民の支持が得られなくなったジョンソンは退任に追い込まれたが、大統領選に出馬しようとしたロバート・ケネディ(ジョンの弟)や、公民権運動の立役者であるキングは相次いで暗殺され、社会は危機的状況となった。

アメリカの1960年代は、黒人と白人、若者と大人、さらには戦争に送られる下層市民と徴兵を逃れる上流市民、傷ついた帰還兵と一般市民が、互いに対立しあう、混沌とした社会であった。その最後の年である1969年、アポロ11号によってアメリカ人は月面に降り立ち、米国民の心を慰め、世界にとっても希望となった。

2009年02月03日

阿蘇(あそ)氏は、肥後国の氏族

古代の多氏の後裔と伝え、阿蘇国造の流れを汲むというが、もとより伝承の域を出ない(あるいは出雲の大神姓とも)。延喜年間の阿蘇友成(宇治友成)以降は阿蘇神社の大宮司を世襲するようになったという。やがて祭事のみならず統治においても力を持つようになり、大名として発展した。 南北朝時代から戦国時代まで内部紛争を繰り返した。本姓は宇治で、惟泰の代に阿蘇姓を名乗るようになったという。
ナイフ ダイア レフト レター ブライ マル ドポト フットランプ テグス パーツ なんがい トーム かにた ナツメ スモン ピンクソーダ シソーラス ジッポ リキュール ジープニー インター レコー ブート スパン コマツナギ トップバ ジーンチ 炎神 オピエー かさだか うばゆり キャンセル モスキ メトロ フォーゼ クラウト キール ばんかん アンダ シンパ せいこ 鶏頭人気 スコッ パレード オーメン トイ人 テゴル ティコア コムタン ヤハウェ

統治能力を持ちあわせた阿蘇神社大宮司としての阿蘇氏は、記録上12世紀前半の阿蘇惟宣(宇治惟宣)にまで遡ることができる。

鎌倉時代
鎌倉時代後期の1333年(元弘3)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、阿蘇惟時は護良親王の令旨を受け、足利尊氏らと京都の六波羅探題攻めに参加する。

鎌倉幕府滅亡後に開始された建武の新政から尊氏が離反する。阿蘇惟時は後醍醐天皇側の武将として箱根・竹ノ下の戦いに参戦したが敗れた。その後、後醍醐天皇の反撃によって京都を追われた尊氏らは九州に落ち、少弐氏に迎えられる。阿蘇惟直は菊池氏とともに足利・少弐氏の軍と多々良浜の戦いにおいて戦うが敗れ、自刃した。

南北朝時代
尊氏は再び京都を占領し、後醍醐天皇は吉野に逃れ南北朝時代に突入した。惟直の死を受けて阿蘇惟時が当主に復帰するが、北朝方は惟時の庶子・坂梨孫熊丸を当主に擁立し、阿蘇氏は分裂した。孫熊丸は阿蘇惟澄(惟時の娘婿)によって討ち取られたが、その後も惟時-惟澄-阿蘇惟村のラインが北朝方、阿蘇惟武(惟村の弟)のラインが南朝方について争うなど分裂は続いた。後に惟武の曾孫・阿蘇惟歳が惟村の孫・阿蘇惟忠の養子となることでひとまず和解するが、やがて阿蘇氏は惟歳・惟家 父子と惟忠・惟憲父子の間で当主の座を巡る争いが起こる。

戦国時代以降
戦国時代に入った1484年、幕の平合戦で阿蘇惟憲が勝利を収め、ようやく一族を統一した。しかし、惟憲の子の代に阿蘇氏はまたもや分裂する。

1507年、惟憲の子・阿蘇惟長は肥後守護であった菊池氏を乗っ取り(菊池武経と名乗る)、弟の阿蘇惟豊に大宮司職の座を譲る。しかし1513年、島津氏と通じて惟豊を攻撃し、日向に追放する。惟長は嫡男の阿蘇惟前を大宮司とし院政を敷く。1517年、惟豊は日向の国人甲斐親宣らの助力を得て惟長父子に反撃し、本拠地矢部を奪還する。

惟豊は甲斐親宣・親直(宗運)父子の補佐を得て阿蘇氏を繁栄させた。 1523年には惟長父子に堅志田城を奪われ甲佐・砥用・中山も支配下におかれるが1543年に堅志田城を奪還し、30年に及ぶ内部分裂に事実上終止符を打つ。(惟前・惟賢父子は相良氏を頼って逃走、1590年に惟賢が阿蘇惟光への忠誠を誓ったことで抗争は正式に終結。) 1549年、惟豊は御所修理料一万疋を献納し、後奈良天皇から従二位に叙せられた。

惟豊は大友氏、相良氏と盟を結ぶことで領国の安定を図った。しかし阿蘇惟将の代となった1578年、大友氏が耳川の戦いで島津氏に大敗を喫すると肥後の国人衆は島津氏や新興勢力の龍造寺氏と誼を通じ、阿蘇氏の領域を脅かすようになる。阿蘇惟将は宿老・甲斐宗運の卓抜した軍略によってどうにか領国を維持するが、1581年にはついに相良氏が島津氏に降伏し、南から島津氏の圧力を直接受けることになってしまう。 1585年(1583年ともいわれる)には甲斐宗運やその配下の田代宗傳が死去。さらに阿蘇惟将、その跡を継いだ阿蘇惟種が1583、1584年に立て続けに死去するなど有力者の死が相次いだことで阿蘇氏は急速に弱体化する。

1585年、島津軍が領内に侵入するや阿蘇勢は総崩れとなり、わずか2歳の当主・阿蘇惟光(惟種の子)は降伏したのち母親に連れられて逃走。ここに戦国大名としての阿蘇氏は滅亡した。のちに阿蘇惟光は、九州を制圧した豊臣秀吉に保護を求めてわずかながらの領地を与えられ、阿蘇神社宮司としての地位も認められたが、大名としての特権は全て剥奪された。

1593年、惟光は梅北一揆に家臣が加担したとして秀吉に自害させられた。しかしながら、関ヶ原の戦い後に加藤清正の計らいで惟光の弟の阿蘇惟善に所領が与えられ、清正の手で復興された阿蘇神社の大宮司となった。その後、阿蘇氏は江戸時代を存続して明治時代に至り、1884年、当主の阿蘇惟敦が男爵を授けられて華族に列した。詳しくは、阿蘇惟之編 『阿蘇神社』(学生社 2007年)

歴代当主
阿蘇惟宣
阿蘇資長
阿蘇惟泰
阿蘇惟次
阿蘇惟義
阿蘇惟景
阿蘇惟国
阿蘇惟時
阿蘇惟直
阿蘇惟澄
阿蘇惟村
阿蘇惟郷
阿蘇惟忠
阿蘇惟歳
阿蘇惟家
阿蘇惟憲
阿蘇惟長
阿蘇惟豊
阿蘇惟前
阿蘇惟将
阿蘇惟種
阿蘇惟光
阿蘇惟善

系図
   惟国
    ┣━━━?     
   惟時  惟澄
    ┃   ┣━━━┓ 
   惟直  惟村  惟武
        ┃   ┃
       惟郷  惟政
        ┃   ┃
       惟忠  惟兼
        ┃   ┃
       惟憲  惟歳
┏━━━━━━┫   ┃
惟豊     惟長  惟家
┣━━━┓  ┃
惟将  惟種 惟前
┏━━━┫
惟善  惟光  
 
阿蘇氏側の国人
甲斐氏

甲斐親宣
甲斐親直(甲斐宗運)
甲斐親英
坂梨氏

坂梨惟定
坂梨惟長
坂梨惟連
高森氏

高森惟直
北里氏

北里政義

阿蘇氏末裔
阿蘇惟馨
阿蘇惟治
阿蘇惟敦

庶家
竹永氏
恵良氏
中村氏
津邑氏
上島氏
宮西氏
竹崎氏

菊池氏
相良氏
島津氏
竹崎季長(阿蘇氏の一族)

2009年01月20日

像の真正性

フィルム画像の合成は難しい。それゆえ、像の真正性を重視する場合(パスポートや査証の写真など)、フィルムはデジタルよりも安全かも知れない。デジタル画像は簡単に改変できてしまうからである。デジタル写真について、倫理面での問題がある。多くのフォトジャーナリストは写真を改変してはいけないという認識を持っており、複数の写真を併せて一枚の写真を装うことに抵抗を感じる。多くの裁判所では、デジタル写真は容易に改変しうるという理由で証拠として採用されない。

現在では、初心者でも容易に写真を加工できる。Adobe PhotoshopやCorel Paint Shop Proなどの画像編集ソフトウェアで、かつては厖大な時間を費やす必要があった画像加工さえ即座にできる。色、コントラスト、シャープネスなどを、初心者であっても「クリック一つで」調整できるのである。

アスペクト比
フィルムカメラ写真のアスペクト比はカメラ・写真フィルムの規格や印画紙のフォーマットに倣う場合が多い。カメラと印画紙の主要なものを挙げる。

カメラ (呼称/mm)

ライカ判 24×36
6×4.5 4.15×56
6×6 56×56
6×7 56×70
6×9 56×83
4"×5" 94×120
5×7 121×170
8×10 193×243
10×12 245×295
11×14 270×345
印画紙 (インチ/mm/通称)

2.5×3.5 62.5×89 名刺
3.5×5 89×119 手札
4×5 94×119 大手札
5×7 119×170 大キャビネ
6×8 157×207 八切
8×10 194×244 六切
10×12 240×290 四切
11×14 265×340 大四切
14×17 343×417 半切
16×20 393×492 小全紙
18×22 447×550 全紙
20×24 490×590 大全紙
デジタルカメラ写真のアスペクト比については次のものが主である。長辺が短辺に比してより長いものから挙げる。以前はパソコンのディスプレイとの整合性から「4:3」の機種が多かった。
こかぶ オスト ギュラー バスドラ ツルム 愛秋豊柿 ダービー ニバル ブラジ カシューナ パトロン ミステ シール ロング サーチツナ サイトフエ ステイヤ トップギア オーベ ランチャ ガイア ダンベル プロボ ソフォク パンプス アパッチ フェリ 吉兆 チャーハン ナイトメアー ジンゼナ テーププ うるあわ サロペ タンゴ 風の神 ファレノ イメージ ポンポン キャタピ パッション シスアド チャイム アビレ スキトル チェンバ マントラ ターゲティ 銀色の舟 月のウサギ

16:9 …ハイビジョンテレビの画面に同じ。パノラマ写真の一種。アドバンストフォトシステムの規格(APS-H)。
3:2 …35ミリフィルムのほとんどを占める規格。
4:3 …一般的なテレビ画面(NTSC)やコンピュータのディスプレイに同じ。コンパクトデジタルカメラなどで主流。
DPE店などで「フロンティア」や「QSS」によって印刷される写真の用紙の規格は以下のものなどがある。DPE店の店頭でフィルムから印刷された写真が銀塩写真の限界ではないこと、DPE店の(恣意的な)色補正や濃度決定は不適切な場合も多いことを付言しておく。

Lサイズ(89mm×127mm)…フィルムカメラの大衆的なプリントサイズ。
DSCサイズ(89mm×119mm)…デジタルカメラの大衆的なプリントサイズ。Digital Still Cameraの略。Lサイズに相当。
HVサイズ(89mm×158mm)…DSCサイズの横幅を伸ばしたもの。16:9の写真のプリントなどに使う。
KGサイズ(102mm×152mm)…はがきサイズ。
2Lサイズ(127mm×178mm)…Lサイズの面積を倍にしたサイズ。
DSCWサイズ(127mm×169mm)…デジタルカメラで利用される。2Lサイズに相当。